13.03.06

市民公開フォーラム「この街で最期まで暮らしたい」のレポート

ものがたり在宅塾 市民公開フォーラム 2013/3/2 オークス砺波平安閣

 

この街で最期まで暮らしたい
―昔、今、そしてこれから―

 

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<主催者あいさつ>
医療法人社団ナラティブホーム理事長・ものがたり診療所所長
佐藤伸彦

 

「この街で最期まで暮らしたい」をテーマに開催した。人は必ず死ぬのだから、最期を見定めて生きなければならない。わたしたちは、どのように死を見送ってきたのか、そしてどういう生き方をしていくのか、民俗学の新谷先生、臨床倫理・哲学の清水先生に話していただく。医療とどう結びつくのかをみなさんとともに考えたいと思う。 

 


 

<講演1>
死と葬送の習俗
―私たちはどのように見送ってきたのか―

 

国立歴史民俗博物館・総合研究大学院大学名誉教授、国学院大学教授
新谷尚紀氏

 

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 民俗学は古いしきたりを研究する。そのしきたりが昭和30、40年代の高度成長によって大きく変わったことに注意を払わなければならない。30年代のしきたりは役に立たないが、学ぶところがないわけではない。古いようだが新しい、新しいようだが古いというものが混ざり合いながら文化は変わっていく。例えば結婚式は神前式から始まり今ではレストランウエディングというかたちもある。素朴な手作り文化を「伝統波」とするならば、ハイクラスで質の良いものを選ぼうとする「創生波」が出現する。しかし、いずれは普及して「大衆波」となる。大衆化されると、再びオリジナルなものを求めて手作りの伝統波に戻っていくというサイクルがある。

 

■葬儀の習俗は高度成長後に大きく変化
 葬式も一時は派手になったが、それ以前はそうではなかった。現在は再び簡素でも心の通うものを求める風潮がでてきている。1955―75年の高度成長を受けて、大きく変わったのがポスト高度成長の80、90年代。そして2000年以降は葬祭ホールがトレンドになった。どんな慣習が消え、あるいは残り、どんなオプションが生まれるのかを調べている。
1975年は病院死が在宅死を上回った年だ。1990年ごろは管につながれながらの延命が社会問題となり、東海大学の安楽死事件が発覚するなど混乱期だった。今は無理な延命をしない方向になっているが、当時は古いしきたりや考えと新しい技術がマッチングしてなかった。

 

 葬祭ホールでの葬儀は、簡単で便利だし、あっというまに終わる。これを情けないことだとみるか、便利だから歓迎するのか、意見は分かれる。価値観は世代体験によりつくられる。葬儀に対する考え方も生まれた時代によって異なる。最初は抵抗感があったことも、そのほうが良いのだと追認するかたちで価値観は一気に変わるものだ。

 

昭和30年と今の葬儀では何が異なるのか以下に記してみた。

【昭和30年】            【現在】

1仏壇前の素朴な棺の安置      →豪華な祭壇

2死顔・最後のお別れ・出棺時    →微笑む遺影

3該当なし             →個人の記念物

4葬儀式(読経・焼香)       →葬儀式

5該当なし             →告別式

6参列者(血縁・地縁・無縁)    → (社縁)

7親族と近隣の相互扶助       →葬儀業者

8通夜(埋葬や火葬までの一段階)  →本葬参列の代替

9葬式三日             →1日で短時間

 

 昭和30年代の広島県で行われた葬儀の写真がある。香典は米であり、みんなが持ち寄って共同調理して食べた。野辺送りをして火葬場まで遺体を運んでから葬儀をしている。
現在は著名人の葬儀に見られるように、その人を象徴するような祭壇がつくられるケースがあるが、以前は個人的な記念物を供えることは仏教的には“執着”としてタブー視されていた。通夜が、通夜式となり葬式に準じるものに価値が高まった。近所づきあいの薄い都会では近親者の死を伝えないのはよくあることになった。

 

■マニュアル通りから選択の時代へ
 葬儀をしてから遺体を焼くのか、焼いてから葬儀をするのかの違いは地域差が非常にあり、変化の過程にも注目している。富山の人は想像できないかもしれないが、宮城などでは先に火葬にするのが当たり前。昭和30年代の前と後で大きく変わった。以前は地域住民が自分たちで焼いていたものを火葬場に頼むようになり、予定が重なることがでてくるぐらいなら先に焼けということになった。民俗は必要に応じていっぺんに変わる。土葬から火葬への変化もそうだった。よくあることだ。
以前の葬儀は地域住民の手作りで行われ、古くから伝わるマニュアル通りに進められた。しかし、みんながサラリーマンになって葬儀に3日もかけてはいられなくなった。業者に任せるようになると経済原理でかける費用によるサービスの格差もでてきた。地域のマニュアル通りではなくなると選択しなければいけない時代になる。今は家族葬をはじめ簡単、便利への流れがある。

 

■変容しつつも残る魂の処理法
 葬儀は遺体、魂、社会の3つの処理を行っている。その時代変化をみると、遺体の処理(葬儀・火葬)は病院と葬儀会社が担うようになり簡便化・迅速化した。すでに遺体を処理する力は地域にはない。社会の処理としては、高齢でなくなる人が多くなり、死は家族的なものになったため社会として補てんの必要があるほどのものではなくなってきている。極端な話をすれば、空いたケアハウスの部屋を次の人に譲るくらいのものだろう。

 魂の処理(死霊から先祖へ)は昔ほどさまざまなことは言わなくなったが、これをなくしてしまうと無味乾燥になる。死をヒューマニティーとして語る必要がある。死者への想像力は文化の源だと言われる。ホモサピエンスしか死を理解できない。そして恐怖をはじめとした感情が宗教の誕生にもつながったと考えられる。死は人類文化の基本であり、逆説的にいうなら死者への想像力をなくすと動物になってしまう。

 供養の方法は納骨仏壇や納骨ペンダントといったコンパクト化が考えられる。写真、映像、音声、日記など、辞世の歌のように何かを残す習慣は受け継がれるだろう。

 

■物語を生かし続ける新しいメモリアル
 老人はどう扱われてきたのかを民俗学でみてみる。長生きは生命力の証しであり、老人を神聖化する習俗があった。還暦以降の老後には仕事、趣味、奉仕の3つの選択肢がある。後継者に技能や知識を伝えたいという欲求が生まれ、教えてほしい者とのマッチングができた人は幸せだ。

 70歳は古稀と呼ぶだけあって稀なこと。75歳から80歳は人生の回顧やまとめの時期で趣味と感謝に生きる。かつては死んでもマニュアル通りに見送られていたが、今なら死に方や葬送、墓のことを考えて言い残す必要があるかもしれない。調査した中でも、自分の死後、初盆に供える小豆や御膳を用意していたり、葬儀で必要になる白衣や魔除けの剃刀などを準備していたりする人がいた。若い者が慣習を分かっていないのを心配してのことだ。現代はみんなが死に支度をする時代になっている。

 

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 高齢者介護に必要なのは 飲食、排泄、入浴の世話であり、古い書物などにも記録がある。しかしもうひとつ、これまでの調査では抜け落ちていた重要な要素として会話・話し相手の存在があった。これに気づくことができたのは佐藤先生のおかげだ。

 メモリアルとは「記念」ではなく忘れないことである。葬儀と看取りについて民俗学が調べてこなかった要素が、ナラティブの活動にあるのではないかと思った。人の物語を大切にすることは、新しいけれど伝統的な知恵が生かされたかたちなのではと感じる。

 子孫が郷里から離れ、先祖の霊もお盆の時にどこに帰ればよいのか分からないだろう。マニュアル通りの追悼が現代には通用しなくなってきた。メモリアルとして死者を忘れず生かし続けて孫子に伝えるという新しい追悼の時代がやってきている。人生の物語を尊重して患者と接するナラティブホームの活動は新時代の看取りであり、死者を生かし続ける新しいメモリアルなのだと感じる。

 


 

 

<講演2>
「最期まで自分らしく生きるために」

東京大学大学院人文社会系研究科 生死学・応用倫理センター特任教授

清水哲郎氏

 

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 今春より砺波でナラティブホームとともに研究調査を実施する。住み慣れたところで最期まで暮らせるかどうかは、地域住民が人の最期をどう考え、どう介護するかにかかってくると思う。医学だけではない、人生をまっとうしてもらうためのサポートがどうあるべきなのか。そのモデルを明らかにして全国に発信したいと考えている。今回の話はそのイントロダクションでもある。

 介護サービスを利用していることに家族が引け目を感じたり、患者のために末期に医療処置を控えることに対する理解が進んでいなかったりと、多くの人の意識が高齢社会の現状に則したものになっていない。それを変えていかなければならないと思う。

 

■ピンピンコロリの実現は困難

 人生の終わり方については、「ピンピンコロリ」という言葉やぽっくり寺信仰があるように元気で長生きして人の世話にならないのがよいという考えがある。しかし介護される立場になったとしても、家族やみんなが世話をしてくれて過ごせるならば、それだってよいじゃないかとも言える。

 実際のところ、ピンピンコロリを願ってもても医学的には実現できる可能性は低い。逆に介護されるようになって、どう過ごしていくかを考えなければいけないだろう。

 

最期まで自分らしい生き方をするために課題となるのは以下の3点。

①本人、家族の意思決定を整える。

どんな治療や介護を受けて過ごすのか。それを患者本人や家族が納得して決めるためにはどうすればよいのか。それに必要となるサポートはどんなものか。

②最期の生や医療の役割についての理解を深める。

みんなが理解することによって、過ごしやすくなる。

③人間関係―助け合い―について:私たちはどういう社会を望むのか。

介護保険による社会的なサポート、地域や人間同士の助け合いはどうあるべきか。

 

■難しい家族による意思決定

 本人・家族の意志決定プロセスについては、「より長く生きる」から「よりよく生きる」ことへ主眼を移し、「医師任せ」から「自分で決める&みんなで決める」かたちを目指したい。

 家族も当事者であり、意思決定プロセスに参加しなければならないがこれが難しい。「愛という名のもとでの支配」とも言えるが、患者の意思を軽視して勝手に決めたり、患者の克服する力を軽視したりするケースが少なくない。患者本人にとっての最善を考えるようにしつつ、家族が過重負担にならずに長続きするように配慮しなければならない。「遠くの親戚のおじさん」症候群とも呼べるが、親しい間柄だったゆえに何かをしてやらないと気がすまなくなる。人にはそういう傾向があり、家族であるからこその良い点・悪い点がある。みんなで意思決定していく時に、このことを自覚しているかどうかで違いがでると思う。

 胃ろうをめぐる報道から受ける悪いイメージは誤解だ。医療関係者に相談し、良い場合と悪い場合を区別してほしい。

 

■よい人生を続けるための医療へ

 目標とする<よい人生>とは、本人が「生きていてよかった」と満足できる(人生観・価値観とも連動)もの。医療は単なる生命維持から、伸びた人生をよかったと思ってもらえる<よい人生>を続けるための医療へ向かわなければいけない。

 ポイントは「自分らしく生きる」「快適な生活」「快適な生活であれば長く」。快適な生活とは、苦痛がなく・楽に過ごせるだけでなく、残っている能力を発揮する機会があること。笑える/楽しく思える/少しだが食べることができる、といった能力があるなら発揮させてあげる努力をしたい。

 医療行為の選択にあたっては、以下の3点をポイントとして挙げておく。

▽関係者みなで話し合って合意を目指す。

▽本人の最善を実現するために家族の負担にも配慮する。負担が大き過ぎると長続きしないから(社会としてどう支えるかが課題)。

▽「人生をまっとうする」を支援するという姿勢。

 

■胃ろうをめぐる意思決定のプロセス

 患者が終末期を迎えて口から食べられなくなった時、胃ろうなど経管栄養によって延命を図るかどうか。本人、家族が意思決定するための考える順序を例示する。

▽ステップ1/自分の人生全体を眺める。現状を把握する。見通しはどうか。問題点はなにか。

▽ステップ2/自分の生き方・価値観を見つめる。どんな生き方をしてきた人なのか。父らしい、母らしい生き方とはどんなものなのか。

▽ステップ3/胃ろうは必要かつ有効かを検討する。口から食べる可能性は残っていないのか。栄養補給によって患者の状態と生活はどう変わるのか。

▽ステップ4/今後の生活の目的・ケアの目標を選ぶ。「より長く+快適に」がベストだが、少なくとも快適ではあってほしい。より長くするだけが目標になるのは避けたい。

 


 

<質疑応答>

■情報は大量化したが確認が必要な時代に

Q:インターネット上のブログなどに一般市民が情報を記録する時代になった。民俗学はこの新しい状況にどう対応するのか。

新谷氏:コミュニケーション手段が高速化し、データが大量化している。情報とすれば活用すべきだし、すぐにでも対応が必要だろう。しかし、逆に現在ほど記録が残らない時代はないとも感じている。記録は過多だが、根拠のない危うい情報が多いため、確認が必要になる。重要なものが残っていかないことを危惧する。映像記録も再生機器がなくなる恐れがある。書いたものならば、物理的に、いつでも再生できる状態で残せる。日記はプリントアウトして残すことをお勧めしたい。

清水氏:原稿用紙に手書きしていた時代は、伝えたい内容を凝縮して表現しようと努力していた。ワープロ、パソコンにより話すのに近い速度で記録が可能になったが、自分でも文章が希薄になっているような気がしている。良いところもあるが、崩れているところもあるという感覚をもっている。それが当たり前になった次の世代なりの文化がはぐくまれるのだろう。ただ、現実世界での行動や体験があっての物語だと思う。インターネットの上の言説だけで物語が完結するようになると心配ではある。

 

Q:重度の患者に「快適」を求めるのは難しいのではないか。定義を説明してほしい。

清水氏:医学的には耐えられない痛みを軽減すること。加えて、その人なりの人生の充実を目指したい。能力があるなら発揮する機会をつくることもそのための取り組みになる。介護者の努力によって違いがでるところだ。実現しなければならないのではなく、現状より少しでも快適であるようにという努力目標と思ってほしい。

佐藤氏:患者の状態によって「快適さ」の捉え方も異なるだろう。患者が何を望んでいるか考え、寄り添っていこうとする姿勢が大事だと思う。

 

■墓を建てる文化は残る

Q:葬儀の変遷を学ばせてもらったが、墓はどうなっていくのだろうか。

新谷氏:葬儀は地域による画一的なマニュアルが崩れ、選択する時代になった。お墓も同じ。散骨を望む人がいるのも象徴的だ。子供らが墓を守ってくれるかどうかも分からない。しかし、家としてではなくとも2人だけの墓をつくる夫婦がいるように墓を残そうという文化は手づくり文化として残っていくと思う。親から子へとつながるチェーンがあるのは間違いなく、人には自分のルーツを考える時がある。その時のためにも墓を残すのはよいと思う。墓だけではなく、自分史や日記を残すと子や孫は喜ぶだろう。

 

Q:死期が近づいた人が体験する「お迎え現象」は、在宅で亡くなる人に多く現れると聞いたことがある。

新谷氏:家で死なないと往生しないという考えは、プリミティブな社会で残っている。一方で平安時代後期の「往生要集」には、家で死ぬと穢れるとして、往生院に集まって死を待つ習俗が記録されている。往生思想は根強く、日本では死ぬとは言わずにあちらへ行くと言うことが多い。「お迎え」という考えがあることそのものが文化だ。

 私の母は施設で亡くなったが、母の世話をしてくれた職員の方に感謝の文章を書こうと思っている。私にとっては神様仏様であり聖なる人だ。感謝の思いを書き残して記録することが大事だと考えている。そんな手紙や、介護者の日記などが次世代への民俗資料になるだろう。

清水氏:知人である仙台の緩和ケア医・岡部健氏は、家族でアットホームに暮らしてきた人がお迎え現象を体験し穏やかな死を迎えると言う。「死んだじいさんが来ているから先生じゃましないでくれ」と言われたこともあるそうだ。調査してみると、かなりの確率でお迎えが来たという事例があった。だからといって、あの世があるとは言わない。死ぬのが怖いのはひとりぼっちで暗闇に行くイメージがあるからだろう。先に逝った人のところへ行くと考えれば、怖さやさみしさは薄らぐ。そういうものの考え方なのではないか。なぜそのような現象があるのか、という研究は行われていて英国でも同様な現象があるそうだ。仏様ではなく、親族が迎えにくるらしい。岡部医師は震災後、患者と家族のケアに当たりながら大切な人を失った話を数多く聞かされたという。宗教的なものに支えられなければやってはいけないという体験をしている。