13.04.09

多職種連携編「終末期ケアについて」のレポート

ものがたり在宅塾 多職種連携編 第8回 2013/3/25

 

「終末期ケアについて」
佐藤 伸彦氏医療法人社団ナラティブホーム理事長

  

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 最終回である今回は「看取る」ということについて考えを述べたい。

 在宅で死を迎える人は約12%。昭和50年代前半に病院死が在宅死を上回り現在は大半を占める。財政難の国は病院や施設を増やさないから、このままの状況が続くなら2040年には年49万人分の看取りの場所が不足すると推計される。これを国は在宅でカバーしたいので誘導策をとっている。現在、在宅死は20万人ほどなので、そこまで増やせるかどうかは難しいところだ。人口5万人の砺波市は毎年約500人が亡くなっており、その約10%が在宅死と推測される。

 「生老病死」は避けることができない苦しみ。江戸時代は平均余命が40歳ぐらいだったが、寿命が延びた今では「病」「老」の苦しみがより大きなものになってきた。一方で、以前は日常に身近にあった死が見えなくなった。その中で何を考えていくべきなのかがテーマだ。

  

「在宅が一番よいわけではない。どこで死ぬかを選べる時代に」

 国は在宅医療を推進している。しかし、すべてを在宅で担えるわけではない。家族らに介護力がなければ逆に患者と家族を苦しめてしまう。経済力もそれぞれに異なる。どこで死ぬのかを選べる時代にしなければいけないと思う。

 
 

「どこでより誰と」

 どこで死ぬのかよりも、そばに誰が居てくれるのかが重要だと思う。

 

「死にざまは親が子や孫にする最後の教育」

 これがわたしの持論。死期が近づき家族が集まり、その生と死から何かを感じとる。人の死を見なければ自分の死を想像することはできない。死に立ち会うことは大きな意味を持つ。生きることへの意識が変わる。

 

「高齢者終末期医療は高度専門医療である」

 生活を支えながら医療ができることをやる。穏やかな死を迎えてもらうためには高度な医療、専門知識が必要になる。介護の基本は生活を支えることであり、そのうえで医療がすべきことがある。それを死の直前まで行わなければならない。
 
 
「言葉に魂を(言魂)」

 終末期医療に関わるうえでは言葉を大事にしたい。威厳はあるが中味の伴わないプラスチックワードには注意が必要だ。例えば「傾聴」。患者から何を聞くかという本来の目的を見失ってしまうと「傾聴」は魂の抜けた空疎な言葉になってしまう。

 
 

「食べることが地獄になっていないか」

 食と餌は違う。栄養を摂るだけなら点滴や胃ろうでよいが、食べる楽しみを支えたいと思う。食は思い出と深く関わる。食事の介助は大変だが、患者に関わる大切な時間だ。少しでも食べたい人の願いをかなえてあげることは生活の質を上げる。

 

「ナラティブとは語りが循環する『場』『空間』」

 尊厳死、平穏死、満足死など言葉はいろいろあるが、病気の苦痛があるので実現することはなかなか難しい。『人生いろいろあったけれど悪くはなかったね』という、ものがたりとしての死を思いながら高齢者医療に携わっている。

 

「看取る、主体は医療者ではなく関係性のある家族」

 ナラティブホームは「看取りまでやる施設」なのではない。看取るのは家族であり、私たちはそれを支援するさりげない第三者であるべき。

 

「大事なことは何を為したかではなく何を為そうとしたか」

 目の前の人のためにわたしたちは何をするのか、を大事にすべきだと思う。その姿勢は高齢者医療も救急の現場もなんら変わりはない。

 
 
「物語的理解(腑におちる)」
 理屈ではなく、「そうだよね」と相手を理解することを大事にしたい。
 
 

130325_2「二項バランス」
 対立するようにみえる二項のバランスをとることが大切だと思う。普遍化された医療と、患者一人ひとりで異なる人生。医療技術は多くの命を救うが、それだけで人は救われないことはみなが感じていると思う。末期がんの痛みは医学がコントロールする、その一方で患者の人生を尊重したい。
 
 
「専門性を捨てる専門性」
医者ではあるが、多くの時間は患者とばかな話ばかりをしている。人間としてつきあいたい。“ケアの反転”と言った学者がいるがその通りで、ケアしている方がケアされているということはままある。
 
 
「その人は 最後まで その人だ」
病気はその人の一側面でしかなく、その人だけの一貫性をもつ。
人間は弱いし悲しい。だがその弱さが強さに変わることがある。末期がん患者が、医師であるわたしの労をねぎらってくれる。強くなければできないことだと思う。
 私たちの取り組みが特別ではなく当たり前になるようにしていきたい。