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介護民俗学

いろいろな人が介護の世界に入ってきてほしい。

介護の豊かさはこれに尽きる。

 

介護資格にこだわっていては、生かされているだけでいいだろうという薄っぺらなものになる。

持論ではあるが、現実はなかなか難しい。

 

でもこの不況下、いろいろな若者が苦しみながら、何かをつかみたいともがいている。

民俗学者でもある六車由美さんがそうである。

大阪大学で民俗学を学び、東北芸術工科大学の准教授の座を投げ打って介護に世界に飛び込んだ。

その経緯は彼女が著した「驚きの介護民俗学」(医学書院刊)でも明らかにしているのだが、働く老人ホームが民俗学の貴重なフィールドに見えてきたのである。
村に出向いた調査では直接会うことができなかった大正一桁生まれや、明治生まれの利用者が、まだらになっているがその鮮明な記憶を語り、歌ってくれるのである。

それはテーマ無き聞き書きだが、民俗情報の宝庫であることは間違いない。

 

例えば、漂流民はメインテーマであるが、敗戦後の電力普及の過程で、ダムに近いところから各村々に電線を引く作業員は、家族を帯同してグループを組み、10人前後で移動して仕事を続けた。

村が用意してくれて家屋での共同生活で、子供たちは滞在中の村の学校へと通い、食事は奥さんたちが共同で賄った。

昭和40年くらいまでの20年余り、定住することはなかった。

その間、仕事は絶えることはなく、給料も驚くほど高かったという。

現代の漂白民のひとつの生き方だったのである。

そんなことを間近いところで聞いた六車は驚きの連続であった。

もう民俗学の宝の山ではないか、何ともったいないと思った。

 

現在置かれている民俗学を学ぶ若者たちはどうか。

その専門性を生かせる博物館、資料館の学芸員の枠はあまりに狭く、研究と生活が両立しない。

例えその職を得たとしても、そこの息苦しさは想像以上であろう。

 

一方で、民俗調査で鍛えられた若者が介護現場でやれることはいっぱいある。

何よりも聞いてあげるという行為ではなく、聞かせていただくという姿勢が、介護する側と介護される側の対等な関係が作り出せるのではないか。

もちろん問題を挙げれば切りがない。

介護職場は個人情報保護や、感染症の問題などで、極めて閉鎖的である。

それでもだ、そんなマイナスを差し引いても、余りあるプラスは大きいと思う。

記憶に残したい多くのものが残せるのである。

 

誰しも語り尽くして、自分の命を全うしたい。

傾聴といってただ聞くだけでなく、記録に留められるというのは素晴らしいことだ。

後世でひょっとして役立つと思えば、とてもありがたいことでもある。(K)


多職種連携編「緩和ケアについて」のレポート

ものがたり在宅塾 多職種連携編 第7回 2013/2/25

 

緩和ケアについて
佐藤 伸彦氏医療法人社団ナラティブホーム理事長

  

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 緩和ケア・終末期ケアを指す言葉として、ターミナルケア、ホスピスケア、緩和ケア(パリアティブケア)があるが基本的な意味は同じ。日本では緩和ケアが正式用語となっており、これを使うことが多い。ケアは一般的な生活を支えることであり、キュア(医療・治す)とは区別される。ターミナルは境界の標識が語源で、終着駅のイメージだ。

 

 

 

終末期の定義

厚生省の「末期医療に関するケアのあり方に関する検討会報告書」(1989)は、末期状態を「一般に難治性の疾患を患い、現在のあらゆる医療技術を駆使しても治癒の見込みがなく、死期が近い(およそ6カ月)と考えられる状態」とした。しかし日本老年医学会は高齢者の余命予測は困難として期間を設けず、「病状が不可逆的かつ進行性で、その時代に可能な最善の治療により病状の好転や進行の阻止が期待できなくなり、近い将来の死が不可避をなった状態」と定義した。

狭義の高齢者の終末期としては以下のような状態が考えられる。自分で体位変換が困難/失禁状態、出血傾向/肺炎などの感染症、褥瘡/嚥下困難、栄養・水分の経口摂取困難/脱水、栄養障害の危険性/多臓器不全の進行、全身衰弱/傾眠状態、精神反応の鈍化。議論されるべき点は多いが、これは時田純氏が1997年に発表したものだ。

  

 

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終末期の問題

 終末期の代表的な問題としては以下のものがある。「安楽死・尊厳死・自然死」や、高齢を理由に治療を控える「高齢者のみなし末期」は許されるのか。「医療経済・社会資源」の観点から費用削減のために治療を抑制してもよいのか、といったものだ。英国では多額の費用がかかる人工透析を高齢者には利用させないという制限を設けている。

 

 

安楽死の定義・区分

 安楽死は「苦しい生ないし意味のない生から患者を解放するという目的のもとに、意図的に達成された死、ないしその目的を達成するために意図的に行われる死なせる行為」と定義される。

 行為による区分では「積極的安楽死(死なせる・殺すこと)」と「消極的安楽死(死ぬに任せること)」に分けられる。人工呼吸のスイッチを切ることは消極的―に位置付けられるが、実際に切る者にとっては積極的―に近いため罪悪感が生じる。

 決定プロセスによる区分では、患者本人の意思による「自発的安楽死」のほか、「非自発的安楽死」「反自発的安楽死」がある。非―は患者本人に対応能力がない重度障害の新生児の安楽死問題などが想定される。反―は本人の意思に反して決定されるもので、もちろん倫理的に認められない。

 以上の分類の組み合わせによる、自発的・消極的安楽死がマスコミなどで「尊厳死」と言われている。医療行為を差し控えるケースなどだ。非(反)自発的・積極的安楽死が「慈悲殺」に当たり、植物状態の患者の人工呼吸器を切るなどはこれに近い。

東海大事件の判例は、日本における積極的安楽死が容認される条件とされる。耐えがたい肉体的苦痛がある/死が避けられず、その死期が迫っている/肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし、他に代替手段がない/生命の短縮を承認する患者の明示の意思表示がある。以上の4つだ。しかし、これらを書類にしてそろえるのは不可能であり、実質的に安楽死を封じた判例とも言われている。

 

「尊厳ある死」とは、人間として遇されて、人間として死に到ること、ないしそのように達成された死を指す。マスコミなどで言われる「尊厳死」とは異なる。すべての死は「尊厳ある死(尊厳死)」であるべきで、「尊厳死は倫理的に許されるか」という問いは本来なら存在しないはずだ。

人工呼吸器外しは射水市民病院でも問題になった。外すことはとがめられ、最初から付けないならば許されるというのは矛盾だ。

  
 

ターミナルケア/ホスピス

2000年ごろ、超高齢者・痴呆老人が病気になった場合、「医療をひかえ自然の成り行きに任せる」ことが「福祉のターミナルケア」のあり方として提案されて問題になった。延命目的の過剰な医療を強く批判し、死に場所の選択・拡大の多様化、自宅・施設でのターミナルケアの拡大、終末期医療を大幅に削減する可能性などを主張するものであり、先見の明は認めるが現在でもさらに議論が必要だと考える。
 ホスピスはレスパイトケア(一時避難的ケア)が中心。平均在院日数は13日程度。現代ホスピスの創始者はシシリー・ソンダース。1967年にロンドンでホスピスを創設した。アメリカでは1974年に最初のホスピスが設立された。日本には1977年に初めて新聞で紹介された。北欧ではあまり浸透していない。
 
 
終末期を支える視点

終末期を支えるには、日本人特有の健康観、価値観、死生観についての視点を欠くことはできない。これらの価値観は国内でも地域によって大きく異なる。

 患者の全人格にかかわる「死」という領域を医療が管理すること、「死の医療化」は人間の自律性を侵害するものであろう。昔は生死が人の知覚可能な範囲で完結していた。しかし現代社会では生死が自分の関与しない人為的なプロセスの中で進行している。ある社会学者はこれを「生と死の脱社会化現象」と呼んでいる。

 ウラディミール・ジャンケレビィッチは「人称態の死」を提唱する。一人称の死は「私の死」であり、自ら経験することはできない。二人称の死は「関係性の死」。誰かにとってかけがえのない人の死である。三人称の死は「他人の死」。医師にとっての患者の死はこれに当たると教えられてきたが、わたしは二・五人称ぐらいを目指したい。

 日本人は西洋人のように生体と死体という二分法でとらえない。生者と屍体を死者があり、人は死んで死者になる。死者として人の心の中に残る。

 


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