お釈迦さんの命日である2月15日に涅槃団子が作られる。お寺の本堂で、お参りに集った善男善女に向けて、袈裟をまとった住職が法事のあとにばら撒く。これを拾って持ち帰り、家族でそれぞれ口にすると、一年の無病息災が約束される。涅槃団子を毛糸にくるんで、子供のランドセルにぶら下げてお守りにする家も多い。
その涅槃団子が回りに回って、ものがたりの郷談話室にもやってきた。「これはやはり、最も信心深いMさんにおすそ分けしよう」と一致した。ベッドの傍には、名僧の本が必ずある。お寺との関係も大事にされている。病を得ても乱れを見せないのは、そんな信心のお陰かなと思っている。
「あたわり」というのは富山弁だが、お釈迦さんの教えをよく表現している。運命づけられている、という意味。生もあたわりなら、死もまたあたわり。「なーん、みんなあたわりながやちゃ」としばしば煙に巻いてしまうが、この心地いい響きは、越中真宗門徒のこころの響きといっていい。自分ではどうしようもないことは、悩まずに受け入れてしまう。そして、とにかく前を見る。Mさんの到達したい悟りというのはこんなものかなと想像している。
焼いたばかりの涅槃団子を口に放り込んで、はたと思う。生まれてくることも、死んでいくことも、自分でままならないのに、他のことが自分の意のままになるわけがない。まさにその通りではないか。われわれも、つまらないことで悩んでいないで、「あたわり」を合言葉に励まないわけにはいかないのだ。
ところで、「生老病死」「四苦八苦」を講演の枕詞で使うわが理事長は、医師にして仏教信者か否か、今度聞いてみよう。