胃ろう
言葉の難しさだ。流されるばかりの表現では人を大きく傷つけるということも。自戒しなければならない。朝日新聞の12月19日朝刊「投書欄」は胃ろうの功罪2編を掲載している。
ひとりは97歳で亡くなった妻のことを話す。誤嚥性肺炎のために胃ろうをつけて2年半。当初はよくしゃべっていたが、だんだん反応がなくなっていった。「経口摂取のリハビリも行なう、改善すれば胃ろうは容易にはずせる」といわれたが、理学療法士のリハビリは週1回で、はかばかしくなく、リハを増やしてほしいといったがかなわなかった。食べることは生きる力につながる。胃ろうを導入するなら、経口食も取れるよう、リハにも力を入れてほしい。そうでないと、空しい時間が残されるだけだ。人として尊厳を守れる医療体制になって欲しい。
いまひとりは66歳。脳梗塞で嚥下障害を持つ人だが、胃ろうで栄養を取りながら補助として口から飲食し、通常に近い生活を送っている。ところが、胃ろうは延命だけを目的にしているという最近の論調に怒りを覚えてる。確かに胃ろう造設は患者にも苦痛をもたらす。それを苦痛だけをもたらすだけとして否定されたら、死ぬしかない。苦痛に耐えながらも懸命に生き、かすかな希望や喜びも得ていることも忘れてほしくない。胃ろう即延命というのは、酷過ぎる偏った見方である。「人の命はそれほど軽くない」。
結論は自分はこうしてほしいという意思を、判断能力があるうちに明確にしておくしかない。とはいうもののこれがなかなかに難しい。(K)